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Itinerancy(森)

Introduction

時期的にはもうすぐ桜の開花宣言がされる頃なのに、なんと外は雪。冬が別れを惜むように降る季節外れの雪もいとをかし とか言いたいところなのですが、現実問題、買い物行けなくて普通に困りました。しかし、新型コロナウイルスの流行が騒がれる今、この雪が外出を控えさせ結果的に感染拡大を抑えたと考えると、疎ましい雪も心なしかいつもよりたくましく輝いて見えますね。

 

おひさしぶりです、森と申します。コロナの影響で追いコンや卒業式が中止になり、部の仲間にも会えなくなってしまい非常に残念です。ぴえん。しかし、目に見えない危険が潜んでいる以上仕方がありません。はじめの段落に[ころな]が4つも潜んでたの、気づかなかったでしょ?(笑)危険は案外あなたのすぐそばにいるかもしれませんからね。とはいえ、学生生活の締めくくりがぱっとなくなって、未だになくなったことすら実感していないのに気持ちの区切りなんてつかないよなぁ。

 

 さて、いつものようなノリで書き始めましたが、ついに卒業レーンなんですね。自己顕示欲が強めの僕はブログ書くのが好きだったので少し寂しいです。今回は「陸上を通して学んだこと」「名市大陸上部について」を書きます。最後ということで、自分史上最長に挑んでみようかなと思います。寸評と被る内容を含んだ長めの文章になりますが、はじめの段落を2度も読んでくれた優しいあなたなら、最後まで読んでくれますよね?()

 

 

ではでは、僕の陸上遍歴を話しましょう。(マジかよどんだけ書くつもりなんだこいつ)

ー小学生編

陸上を始めたのは小学生4年生からで、夏休みに短期で行われていた部活に参加していました。理由は走るのが好きだったからです。運動全般苦手だったけど足だけは速くて、体育は嫌いだけど走るのは好きでした。運動会はクラス対抗リレーで輝けるので好きでしたが、ドッヂボール大会はソフト部の女の子にボコられるので嫌いでした。そんな僕は体育の授業で走高跳に出会いました。学校で一番高く跳べたから高跳びが好きになりました。中学に上がろうというタイミングで、親友に「俺、中学行ったら幅跳び頑張るからさ、お前は高跳びな」と熱い約束を交わしました。

 

 

[Info]

実は野球部にも所属していた黒歴史がある。

苦手な球技部に入った目的は走ること。

メニューがベースランニングの日だけウキウキしていた。

ちなみに、ポジションはベンチ。通算打席数は1(四球)。

ー中学生編

中学校では、入学の直前に顧問の先生が変わって部が非常に厳しくなったと聞きました。ビビりながらも親友との約束を守って、陸上部に入り高跳びを選びました。部は噂通り厳しかったですが、顧問の先生の指導力は素晴らしく、入部してすぐに名古屋市の学年別大会で優勝しました。完全に調子に乗りました。俺って才能あるんだなぁと。

そのあたりから、練習を雑にこなすようになりました。先生の死角でサボったり、休んでゲーセン行ったりしました。練習は怠くても、部のみんなが好きだったので楽しかったです。まぁ当然記録は伸びませんでした。

そんなある日、貼りだされたメニュー表に突然作られた「四種パート」の欄に自分の名前がありました。そこで400mに出会い、練習して記録を伸ばす楽しさを思い出しました。結果的に一年以上成長していなかった高跳びもベスト更新できました。厳しい練習は真剣に取り組むと何倍もしんどかったですが、サボっている頃よりも何倍も楽しかったです。余談ですが、四種競技のうちの一つであるハードルに関して「フォームがガラスを突き破る時のポーズみたい」という理由で「ガラス職人」と呼ばれていました。さすがにそこまでセンスなくはないけどな。

 

※in名阪戦2018

最終的にはリレーのメンバーにも選ばれて、さらに練習に励みますが、本当の楽しさに気づくのが遅すぎました。周りが東海レベルの大会に出場する中で結果を出せていない自分が情けなかったです。思えば、ものごとに真剣に取り組んだのはこれが初めてでした。

中学時代を振り返って思うのは、自分は二つの部活の楽しみ方を経験して、それが今の価値観に大きく影響していると思いました。二つの楽しみ方というのは、今風に言うならば「エンジョイ勢」と「ガチ勢」という表現が分かりやすいかと思います。この二種類は同時に両立することは不可能で、互いに悪影響を与えあう関係だけど、高確率で同じ部内に共存していると思っています。この問題は非常に難しくて、残念ながら部を解体する以外の解決方法はないと思います。価値観の押し付け合いになっちゃうからね。ただ、僕のケースのように楽しみ方が変わることも、環境によってはあり得ると思います。今では「部活動」である以上は、楽しむことより結果を出すことを重視すべきだと自分は思いますが、昔の自分に聞いたら真逆のことを言うと思います。途中から考え方を変更できた自分は、顧問の先生や友人達に恵まれていたなと思います。

 

[Info]

同学年の中で、最も早く(入部して2週間ぐらい?)

顧問に叱られた記録を持っている。

その理由はウォーミングアップ中に

悪戯(カンチョー)を仕掛けて遊んでいたから。

この経験から得た学びは

『帰れと怒られても、マジで帰ってはいけない』。

ー高校生編

 高校時代は、部活をしに学校に通っていたと言っても過言ではないぐらい部活が生活の中心でした。高校には高跳びの設備がなく、400mには東海新人で入賞するような先輩がいたので、種目は400mに決めました。中学生の時届かなかった東海大会を目標に、先輩が引退するまではただひたすらその背中を追っていました。引退してからは、自分がエースとしてチームを引っ張っていくというプレッシャーがうまく働いて、常に緊張感をもって練習できていたのかなと思います。実は、400mHを真剣に練習していた時期もありました。そこそこ仕上げて出場した大会で、背中を肉離れしました。肉離れするにしても背中て、短距離走で背中て。その試合で、落ち込む僕に顧問の先生は「センスないから、気合で走るだけの400mのほうがいい」と言い放ち、400mHは引退しました。たしかに怪我はしたけども…さすがにそこまでセンスなくはないけどな。

 

高校時代は100m×100本や200m×25本などの鬼畜メニューや、毎週300m+100mをやる冬季練習、300m続く坂道での練習など、まさに高校生らしい練習を毎日のようにこなしていました。そんなこんなで迎えた最後の総体。名北予選では、県大会に通過はしたものの50秒を切ることもできず、めちゃめちゃ凹んだのを憶えています。不安が残るまま挑んだ県大会は、予選から0.5秒近い大幅なベスト更新で、不安は完全に消え去りました。決勝では自身初の48秒台、7位と僅か0.01秒差で競り勝ち東海大会出場を決めました。2本走り終えて疲れきっていたはずの決勝で1秒近いベストが出せたことに本当に驚きました。4849を見間違えたのかと思った。試合は毎回全力で走ってるのに。アドレナリンだか何だか知らないけど、陸上って本気でやってるとこういうことがあるんだよね。

東海大会ではベストを更新して、準決勝まで行きました。目標だった東海大会で憧れの舞台で2本も走り、ベストも更新し、悔いのない清々しい引退のはずでした。家に帰って、荷物を片付け、部屋で一人になって、ふと大会を振り返ったら何故かボロボロ涙が出ました。自分でも何故かわからず驚きながらえんえん泣きました。(この日について、当時の自分は「人生で一番泣いた」と言ってますね。The best ぴえん)

高校時代を振り返ってみた時に感じた変化がありました。最高学年になってからは、プレッシャーもあったのか、緊張するのがめちゃめちゃ早くなりました。「総体の前の記録会で、これぐらいの記録出したいなぁ…って考えると今日の300TT36出してたらまずいな」みたいに考えてしまって、小さな記録会前の調整練習ですら緊張したりしてました。ちょっとビビりすぎだな()。でもそのおかげで、一日一日の練習を大切にできていたので、将来を見越して計算して緊張できるのは、自分の中ではいい変化だと思いました。こういう考えをできるようになったのは、顧問の先生の指導のおかげですね。本当にいい先生に出会いました。

逆に、悪かったと思うのは目標を低く設定した点です。「夢・目標は大きく持つべきだ!」なんてありきたりすぎて、人生で何度も聞き流してきた言葉ですが、自分で経験して初めて納得しました。目標って、ちょうどそこか一歩手前で終わることが多いので、「ちょっと無理かな」と思うぐらいでちょうどいいと思います。目標を高めに設定すれば、日々の練習でいい意味の焦りが出てくると思います。まぁ俺ぐらい緊張するのはやりすぎかもしれんけど()

高校陸上でも今に活きる大事なことを学べました。今考えると、東海大会が終わって泣いた理由は、自分の可能性を信じ切れなかったからかなぁと思います。自分の限界を低く見積もりすぎていたから。顧問の先生の「お前はインターハイに行けるぞ」という言葉を信じ切れていなかったから。もしかしたらもっと上に…と考えて悔しくなっていたんだと思います。(とはいえ、これって結局どこまでいっても、きっと同じように思ってたかもね。書いてて分からなくなっちゃった() )ちなみにですが、小学生編で熱い約束を交わした親友は、三段跳びでインターハイに出場しました。俺も追いつきたいなと思いましたね。そのこともあって、今後は何事も目標を高く持って、トップレベルの舞台で戦えるようになりたいと思いました。

 

 [Info]

東海大会の直前、高校の体育館で

自分を送り出す壮行会を開いて頂いた。

試合への意気込みや決意を語るべきであろうシーンで

発した第一声は「僕、今日誕生日なんですよ」。

 全校生徒に強制的に誕生日を祝わせた。みんな拍手してくれた。

ー大学生編

大学1年生の春。大学生の部活サークルに過度な期待を寄せていたので、「大学ではなんかマイナースポーツでも始めて、日本一になるか!!」(名市陸部ブログ参照)と意気込んでいましたが、名市大には残念ながらそれが叶いそうな活動をしているところはなさそうでした。(日本一と言いながらマイナースポーツ選ぼうとしてるの、自分っぽいな。)新歓期間に色々見て回った結果「やっぱり大学でも陸上でいっか」みたいなノリで入部を決めました()。陸上部特有の空気感が好きだったし、なんだかんだ入学手続きで熱心に話してくれた時点でだいぶ心を惹かれていたと思う。

1年生の間は授業も多いし、バイトも初めてだし、とにかく大学生活に慣れることが大変で、バタバタしている中での部活はハードでした。今思うと、この時期はまさに大学生って感じで充実していましたね。青春。練習は目標云々は考えてなくて、受験でなまった体を戻すことが先決で、がむしゃらに練習していたと思います。短距離の同期はわりとみんな頭のネジが飛んでいたので、通常の練習が終わった後に「300m+MATCH」(300m走り終わった後に自販機に行って、シュワっとはじける微炭酸MATCHを飲む)をやってたのがめちゃめちゃ記憶に残ってます。楽しかったなぁ(笑)個人デビュー戦の一橋戦で50秒台、シーズンオフは49秒台で西カレB標準突破と、初めの一年は上出来だったと思います。

2年生になってから色々と崩れ始めました。年度が変わる前ごろから、オリ長としての活動が忙しく、部活の優先度は下がっていました。「オリターの活動の準備で学校行かなきゃ」「新歓期間はお金使わなきゃいけないからバイトもしなきゃ」言い訳を作って、部活よりも楽なことに逃げている自分を正当化していました。確かにやることは多かったけど、自分で忙しくしていただけで、ホントは部活出来ないほど忙しくなんてなかった。そんなことをしていたら、50秒が切れなくなりました。当然、東海インカレはあっさり予選落ち。それからは5~6戦ぐらいかな?何度走ってもタイムは「50.**」。昨シーズンオフより悪いタイムに凹んでモチベ下がっての悪循環で、大学ワースト記録も出しましたね。とどめを刺すように27大前には骨折もしました。(時効なので言いますが、骨折の理由「家の階段を踏み外して」ではなく「サンダル履いてる時に酔い、店のちっさい溝にはまって」です。恥かしくて嘘つきました。ごめんなさい。)この時期は人生で一番陸上が楽しくなかったな。同じ時期には周囲もやる気を失っていく人が多くて、「部活やめてぇ~」なんて冗談めかして言っていましたが半分本気でした。大会前日に平気でバイトとか入れてたな。けど、好きだった陸上と部の仲間を捨てる勇気はなくて、楽しくないのに辞めたくなかった。心のどこかでは変わらなきゃいけないと思っていましたが、結局シーズン中に50秒すら切れない残念な結果でした。

シーズンオフ間際には膝裏を故障し、グラウンド工事で練習場所もバラバラ。故障者も多かった短距離はみんなモチベが下がっていて、練習に来る同期は「もえのちゃんとゆみかと俺+誰か1人ガチャ」みたいな日も多くめっちゃ虚しかったです。この時期ぐらいに、自分はなんのために部活をやっているのかを考え直しました。大学で陸上をしていて自分の心を動かした出来事を整理すると、七大で名大が優勝した時、高校の同期・ライバルが大学でも結果を出していた時、部員のPBの文字を見た時。結局のところ、自分よりかっこいい他人の姿に嫉妬していたんだなぁと思いました。そこで初めて中学・高校で学んだこと、何も実践できていなかったことに気付きました。

僕の大学陸上はここから始まりました。全カレ標準を切ることを目標にして「今年は本気で頑張るから」って部活や大学の友達、家族にも宣言して逃げ道を防ぎました。Twitterに陸上アカウントを作って毎回メニューの反省をしました。節約のためにカップ麺ばっか食べてた食生活を改善してバランスを計算したり間食を取り入れたりしました。バカみたいなサイズのプロテインやクレアチンを買いました。試合や練習で自分の動画を撮ってもらうようにしました。サイトや論文読んだり先輩に聞いたりして、走り方や練習メニューなどを勉強しました。陸上に割く時間をめちゃめちゃ増やしましたが、バイトもゼミも並行でこなせました。(影響されることもあってしんどかったけど)結局、大学2年の時の「時間がない」なんてのは言い訳でした。

気持ちを切り替えてからは、「目標・目的を明確にして、そのための手段を考える」ということが出来るようになりました。目標達成までの道筋を辿って課題を一つ一つこなしていく自分の姿を具体的にカラー映像のようにイメージできるようになりました。

シーズンに入り、初めの数戦でも今までになく緊張しました。シーズン一番の目標の東海インカレの目前、もちろん練習の時点から緊張してました(笑)緊張感からか、300TTではUBが出ていました。インカレ当日は大学生活で一番緊張しました。結果は49.17UB3rdベストでした。(タイムは疑惑が残りますが。まぁナイショということで。()200mも400mも準決勝まで行けました。動画で見ても動きは格段に変わっていました。

 

一人で沖縄に旅立って西カレに出たり、昔のライバルにたくさん会える愛知県選に出たり、49秒台が安定するようになってきて、やっと陸上が楽しかった。夏季大会は、万全じゃないコンディションで走った200m22.20PBが出て、自分でもびっくりした。客観的に見ても「波に乗ってきた」というように見えたんじゃないかな。400mもこの調子でと意気込んでたけど、その1週間後に事故に遭い、結局この夏季のレースが最後のレースになってしまいました。

おわりに

いかがでしたか?以上が僕の陸上遍歴でした。陸上には百万枚撮りのフィルムでも撮り切れないほどの想い出がありますが、ざっとこんなもんでしょう。(ざっととは)・本気で取り組むことの楽しさ・高く目標を立てる意義・目標達成するための戦略の立て方。この辺りは自分の人生の大きな宝になっています。自分は陸上からこんなに素敵なものをもらいました。本気でやったご褒美かしら。みんなも同じ気持ちを味わってほしいです。

 

最後に、名市大陸上部に対する思いを少しだけ。僕は入部してからずっと「名市大陸上部を強くしたい!」という思いがありました。今この文章を書いているのもこの気持ちがあるからです。部が強くなる方法は単純で、一人でも多くの部員が「もっと強くなりたい」と思うだけでいいと思います。

先ほど、エンジョイ勢ガチ勢の話をしましたが、大学でもこの問題はあると思います。陸上競技は結果が出た時に初めて努力の正しさが証明されるシビアな世界だからこそ、結果にこだわって競技をするべきだと思います。だけど、時間やお金に制限があったり、心理的に抵抗があったり理由は様々で、みんながみんな陸上だけを全力でってワケにはいかないと思います。だけど、中学・大学で僕が変われたように、環境や考え方次第で変えることはできる人もいると思います。

強いチームが強くなるのって簡単なんですよね。環境やノウハウは蓄積するし、周囲が強いとそれに引っ張られるし、知名度で強い部員が入ってきやすいと、結果的にさらにチームが強くなります。ただ、名市大はそうではないので、名市練や27大は強いチームになるための第一歩だと思っていました。なのでこの取り組みは大賛成だったし積極的に進めていきたいと思っていました。ただ、チームを強くしたいのにむしろ弱く可能性があり得るなというところが心配でした。こういうのを経済学ではコブラ効果なんていうのですが、名市練はそのリスクを孕んだものだと思います。未完成の中途半端な練習に意味はないし、それだけに参加するのでは強くなりようがないですよね。そうなるのは一番避けたいと思っていて、自分が引っ張っていきたいと思っていたのですが、結果として後輩に丸投げするような形になってしまったのがすごく申し訳なくて悔しいです。

僕が活動していたころは「名市大を強くしたい」と同じ志を持つ部員がたくさんいました。今どんな雰囲気なのかはわかりませんが、今後そう思ってくれている部員が増えてくれると嬉しいです。「ちょっと頑張ってみようかな」と思ったら、少しでもいいので何か始めてみてほしいです。ホントに何でもいいです。時間がなくてもできることはたくさんあります。

 

では、ホントの最後に

山の上陸上部も名市大陸上部も、大好きでとても楽しかったです。部活を通してかけがえのないものをたくさんくれた、先輩・同期・後輩・その他関係者の皆様、本当にありがとうございました!

 

 

…あ、そうそう、さっき最後のレースって言ったけど、アレは大学最後って意味で。俺もまだ陸上つづけてみようかなって思ってるんだ。ということで、俺と一緒でまだ陸上を続けるであろう、HFRB(ハイパーファイヤーロマンティックベルーガ)のアンカーたけひろに回しますね!